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第135号 「上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。」の「水」の捉え方から人生を考える

 

最近、本を読んだり、ネットをしたりする中で、中国三大宗教のひとつ「道教」の記事を目にすることが多くなりました。

 

私の理解では、「道教」は無為自然を尊び、無理をせず、自然のままで生きよという教えです。

 

これを目にする機会が多くなったのは、何故でしょうか?

 

ひとつ挙げられるのは、コロナをはじめ、世の中が不透明になってきたことが影響しているのではないかということです。

 

 

「〇〇をやれば必ず成功する。」

 

「将来は〇〇になるから、今から〇〇するべき。」

 

そんな文句に疑問を持つ、ふと立ち止まる人が増えてきたのではないか、私はそんなことを考えてしまいます。

 

 

「道教」と対極にある「儒教」は、人を愛して、他者を思いやることによって、社会に秩序が保たれるという「仁」という道徳概念があります。

 

この考え方自体は大変すばらしいのですが、さらに上を目指そうとする意識が強まると、形骸化する負の側面が生まれるといいます。

 

理想が高すぎると、現実との乖離が大きくなり、それは次第に、口で言っているのと、やっていることが全然違う、ということが起きます。

 

 

「道教」は「儒教」を人為的な教えであると捉えます。

 

「道教」は、この「儒教」の教えを、「結局無理し過ぎるから、おかしなことになるんだ。」

 

「自然のままでいい、そして足るを知れ」と説くのです。

 

 

これは、今の自分に満足しなさいという考えです。

 

そう聞くと、成長意欲がない、後ろ向きの考え方のように映るかもしれません。

 

でも、「金銭的には厳しいが、気の合う仲間と一緒に、やりがいをもって、自分の好きなことをして人生を楽しんでいる。」

 

また、「自分はがんを宣告され、余命1年だが、命の尊さ、支えてくれる家族のありがたみ、何気ない日常の生活こそが素晴らしい奇跡であることがわかった。」

 

無理して抗わず、自分のありようをそのまま受け止める。

 

私は、自分事で考えた時、このように振る舞えるだろうかと少し心配になります。

 

 

しかし、「道教」の開祖と呼ばれる老子が書いた次の言葉に私は励まされるのです。

 

 

原文:「上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。」

 

意訳:最上の善は、水の働きのようなものである。水は、あらゆるものに恵みを与えながら、しかも誰とも争うことがない。

 

 

川は重力によって、上から下に流れる。

 

途中、大きな岩があっても、抗わずその横をすり抜けていく。

 

やがて、それは、田畑に流れ、作物を育てる。

 

老子は、「争いや欲望を避ける生き方」を水に例えていたのです。

 

 

実は、「儒教」の開祖である孔子も、水の大切さを説いていたといわれています。

 

しかし、それは老子の捉え方とは随分と異なっていました。

 

川がとうとうと流れるさまを、人のたゆまない努力・勤勉の象徴と捉えていたのです。

 

 

私は、どちらの教えも共感できます。

 

水ひとつをとっても、ものの見方、解釈が大きく異なる。

 

とすると、それはどちらが正しい、どちらが間違っているということではない。

 

また、これら以外にも、世の中にはさまざまな教えが存在しています。

 

要は、いろんな教えを学んで、人生に悩んだ時、大切な決断をする時に、自分の成長につながるように教えを活用すればよい。

 

時には”前のめり”で、時には”いなし”ながら。

 

そのように人生を謳歌したいものです。