先日、NHKスペシャル「”冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を録画視聴しました。
私は、2018年5月に8度目のエレベストで滑落して死亡したというニュースを知るまで、彼のことをよく知りませんでした。
それ以降、興味を持って、彼のことを自ら調べたりするようになっていました。
すると、「肯定的な意見」と「否定的な意見」が入り混じって紹介されていることがわかりました。
「挑戦するという勇気をもらいました!」「失敗に負けずこれからも頑張ってください!」という応援メッセージを贈る人もいます。
一方、「本当の登山家を愚弄している!」「プロの下山家だ!」と酷評する人もいます。
「賛否両論」という言葉がこの状況を一番的確に表現しているのかもしれません。
ですから、NHKスペシャルで彼を特集することを知ってじっくり見てみようと思ったわけです。
序盤、栗城さんの若い頃を自身が語っているシーンがありました。
「自分がバイトをしてお金を稼いでも、何のためにお金を稼いでいるのかわからなかった。」
「自分は何のために生きているのか。」
自分の生きる目的が見つけられなかったといいます。
しかし、しばらくして偶然出会った登山に生きがいを見つけ、そこからネットを通じた”冒険の共有”という彼独自のスタイルの登山家を目指すようになります。
最初は応援する声も多かったのですが、失敗が続くようになると次第に否定的な声も増えていきます。
それをネット配信会社の関係者は、マスメディアが伝え方に問題の一端があったようにも映るといわれます。
彼の登山の様子を「感動」「努力」「勇気」「希望」といった側面を切り取るようにして表現する。
それを見た一部のネットユーザーは「そうではないだろう」とか「ちゃんと正当に評価しろよ」みたいな声が出てくるのです。
また、栗城さん自身の強いこだわりが、いくつかの批判を浴びることになっているという事例が紹介されていました。
それが、「単独・無酸素」で登山するという言葉。
どうやら厳密な定義はないようで、解釈も人によって異なる場合もある、これまでの登山家の常識のようなものといわれています。
単独・・・ルート上に他の登山者が一切いない状態で登ること
無酸素・・・8400m以上の山で酸素ボンベを一切使用しないこと
上記のような一般的な通説となっている定義と栗城さんが思う定義はずいぶん異なっています。
彼は見せ方に強くこだわりを持っています。
ある方が、「彼は登山家ではなく演出家だ。」といわれるのも少し分かります。
ネット配信で登山をしない人たちとも一緒に冒険を共有しようというのですから、見せ方は彼にとっては重要な要素です。
誰もなし得なかったことを自分がやる。
彼には、「単独・無酸素」というインパクトのある言葉が欲しかったのだと思います。
そこには、困難であればある程、達成した時の反響は大きく、周囲からの称賛を得られます。
凍傷よって手の指を9本失うことになり、死ぬことになるまで彼を突き動かしたものはなんだったのでしょうか。
誰もが挑戦したことのないこと、誰もが不可能と考えることを成し遂げることに、生きがいを感じるようになっていったのでしょう。
ネットでの賞賛は彼を大きく後押しします。
それと同時に彼のやり方を好まない人たちも出てきます。
彼に対して否定的であったり、攻撃的であったりすることもあります。
彼はそういう人たちを「否定の壁」と称して、それを乗り越えようと、さらに自分に負荷をかけて無理な挑戦をしていきます。
こうした人たちにとらわれ過ぎてしまったことが、悲劇を招いてしまったのではないかと感じざるを得ません。
「エベレストの最難関ルートといわれる南西壁に単独・無酸素で臨むという無謀ともいえる挑戦を成し遂げることができたなら、そうした否定的な声を賞賛の声に変えることができるのではないか。」
「それこそが自分が栗城史多であるという証明である。」
ひょっとしたら、そう思い込もうとしたのかもしれません。
栗城事務所のマネージャーである小林幸子さんは、こんなことを言われました。
「応援してくれるみんながいつか離れてしまうかもしれない恐怖を抱えながら、自分の弱いところは出来るだけ隠して、カッコイイ姿を見せるように振る舞っていた。」
「でも本当は、強いところも弱いところもあるからこそ、人は魅力があるもの。」
「そのままで良かったんだよ、ということを栗城さんには伝えたい。」
指を失った栗城さんを途中から支援されていた登山家の花谷泰広さんは、以前彼にこんなアドバイスをしたといいます。
「山を見るのではなく、自分を見て登れ。」
「己がどれくらいの力があって、どのくらいのことができるのか。」
「そういうのをちゃんと見極めないともしかしたら命を失うかもしれない。」
これまでのお話から私が学んだことを言葉にしておきたいと思います。
①冷静になって、己を知ること
②次にそのありのままの自分を勇気をもって受け入れてみること
③そしてそんな自分を好きになってみること
多分、栗城さんは自分で自分をほめることをしない人だったのかもしれません。
周囲に反応に一喜一憂することなく、自分を見失わず、自分をもっと好きになっていたら、違った結果になっていたのではと。
”いいね!”をみんなからもらうことで自分が生きていると実感するようなSNS全盛の時代。
”いいね!”をもらうために、他人に迎合した、無理をした本当の自分とは違う生き方を選択するなんて悲しすぎます。
己を知り、それを受け入れ、自分をもっと好きになることが、他人に惑わされない自分らしい生き方が出来るのでは、栗城さんの死からそんなことを感じさせられました。