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第88号 学ぶ必要がないと思うのは、誰かが何とかしてくれると思うから

 

週末の連休中に、福沢諭吉の「学問のすすめ」の特集が組まれた週刊ダイヤモンドを読みました。

 

タイトルは、〝超訳!学問のすすめ〝です。

 

福沢諭吉と聞いて、何を想像されますか?

 

・一万円札の人

 

・慶應義塾大学創立者

 

・「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言った人

 

福沢諭吉の著書「学問のすすめ」を読んだことのない、またよく知らない人は、誤解をしている傾向があるといいます。

 

「学問のすすめ」の序章にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」から差別をなくそうなどと平等を説いた本であるという誤解です。

 

何を隠そう私も読んだことのない人ですので、何となくそうかなぁと思っていたぐらいでした。

 

そういえば、つい最近一緒に飲んでいた私の知り合いも、福沢諭吉は凄い、「学問のすすめ」はためになると言っていました。

 

さてこの特集、私がこれは良いと思ったのが、福沢諭吉の生涯を漫画で紹介しているところです。

 

この漫画を描いているのは奈良裕己さんというイラストレーター。

 

結構な頻度でこうした雑誌などの作画を担当されているようです。

 

特定の人物の一生にフォーカスを当て、起伏に富んだストーリー展開が非常に分かりやすく、面白く描かれています。


読者に伝えたいことが伝わるように、丁寧に作り込まれていることがわかります。

 

その中で、なぜ日本人は学ばないといけないのか、諭吉が本気で思うシーンが2つ紹介されています。

 

それは、明治維新後に、馬に乗った農民と諭吉がすれ違う時に起こった出来事です。

 

農民は諭吉の身なりを見て、身分が違うと思って、乗ったまますれ違うのは無礼にあたると感じ、馬から降りようとしたのです。

 

その時、諭吉のセリフはこうです。

 

「おい、そんなことをするな!馬に乗れ!」

 

「おい、乗らなきゃぶん殴るぞ!今の法律では誰でも自由に乗馬していいんだ!」

 

それでも納得していない様子の農民を見て、諭吉は思うのです。

 

彼らには、教育がない、また法律があることも知らないがゆえに、こうした行動を取ってしまう。

 

もう一つは、諭吉が大阪の街中で、態度を変えて人にものを尋ねるという実験をするシーンです。

 

初めに自分が横柄な態度で町民に問い掛けるのです。

 

「これ待て!あそこの家の主人は誰なんだ?」

 

そうすると、相手はぺこぺこして諭吉に応えるのです。

 

次は、別の人に向かって遠慮がちにへりくだって問い掛けます。

 

「もし、すみませんが、ちょいとお尋ねします。」 

 

すると、相手は見下した横柄な態度で応じるのです。

 

こうした人々の状態を見て、諭吉はこう思うのです。

 

「これは政府の圧政ではない、人民の方から圧政を招くのだ。」


何も知らないから、知っているものにいいように動かれされ続けてしまう。


また、その事自体全く気付いてもいないし、何の疑問も持たない。

 

厳然たる身分制度が存在していた江戸時代は、支配する側と支配される側がはっきりしていました。

 

しかし、世の中の制度や仕組みが大きく変わった明治維新後も、多くの人が与えられた仕事だけですごすなら、いずれ日本は破綻してしまうことなると諭吉は考えるのです。

 

地域や国家の将来を考えるのは、これまでのように一部の特権階級であってはいけない。

 

国民1人1人が国の担い手であり、それら全てが国家を形成していることになるのだということをきちんと意識しなくてはいけない。

 

他人に依存しない自立した個人が増えることで、しっかりとした地域や国家ができる。

 

「自分は何もしなくても、きっと誰かが、何とかして、よくしてくれる。」

 

こういった考え方をする人々に対して、諭吉は強い危機感を持っていたのです。


 

ところで、私が漫画が好きなことは、過去のブログでも紹介しています。


「自分は何もしなくても、きっと誰かが、何とかして、よくしてくれる。」


この文章を見た時、私はある漫画の一場面がふと浮かんだのです。

 

それは、バスケットボールを題材にした「スラムダンク」を代表作とする井上雄彦さんの「バガボンド」という漫画の一場面です。

 

「バカボンド」とは「放浪者」という意味だそうです。

 

剣の道を究めようと、強敵に挑み勝ち続けていく宮本武蔵が主人公です。

 

京都の兵法家に吉岡一門という剣術の名門がありました。

 

その当時の当主である吉岡清十郎、その弟吉岡伝七郎を倒し、その門弟七十名余との決闘での一場面です。

 

多勢に無勢で武蔵は早々に切り殺されて終わる、とほとんどの者が想像していました。

 

ところが、武蔵が不意を突いたこともあって、門弟が次々と切り殺されていきます。

 

その予想外の光景を目の当たりにした一人の門弟の、そばにいた兄に話し掛ける言葉が非常に印象的なのです。

 

「兄者・・・ワシらはどこか覚悟が足りんかったんやないかの・・・?」

 

「数の利に、心がどこか寄りかかっておったんやないかの?」

 

「(死合が終わって)家に帰ったら餅を雑煮に入れて食おうと思って、とっといた。」

 

 「今朝ここでワシまで死ぬことになるとは思うてなかった。」

 

 「勝敗はワシらには関係のないところで、早々に決すると。」

 

「1人でここに来たあいつ(武蔵)の覚悟に比べて、恥ずかしい・・・」

 

兄に故郷に居る母のことを頼むと言った後、自ら切りかかり瞬殺されてしまうのです。

 

ほんの3ページのシーンなんですが、私の琴線に触れてしまったのです。

 

「切り合い」と「学ぶ」を同じ土俵で語るのは少しはばかられるところですが、あえて同じことであると言い切りたいのです。

 

〝やるのは自分ではない〝

 

〝これだけ人がいるのだから、誰かが自分の代わりにやってくれるはず〝


〝自分には関係ないこと〝

 

こうした周囲へ依存する考え方が国家を衰退に向かわせることになるのではないかと、諭吉は危惧したのではないでしょうか。

 

超訳!学問のすすめで、再三繰り返された言葉が「独立」という言葉。

 

私は「自立・自律」という言葉に置き換えてよいと思います。

 

自立・・・自分だけで物事を行う

 

自律・・・自分をコントロールする

 

そのためには学ばなくてはいけない。


そうなんです、「天は人の上に人を作らず・・・」は、平等を説いたのではなく、学ばないと大きな格差が出来てしまうという日本国民への警鐘だったのです。

 

個々が学ぶことでその集合体である国家が繁栄する重要性を諭吉は説きます。

 

ホームページの先頭に目立つように次の問い掛けを私は入れています。

 

「自分らしい人生とは何でしょうか。」

 

「それは誰かのせいにしたり、誰かに依存しなくてはいけない、借り物のような人生ではないはずです。」

 

自分らしく生きるために、周囲に依存しなくてもいいように、学び続けることが大切であると、改めて痛感したのです。