前号に続き、NHKスペシャル「人生100年時代を生きる」~第二回 命の終わり方と向き合う~ を見て感じたこと、一緒に視聴した三男の息子に伝えたこともご紹介したいと思います。
第一回は「どう生きるか、どう過ごすか」というところに焦点が当てられていましたが、第二回は終末医療の現状を中心に「どう死ぬか」というところを考えるというものでした。
「自然な形で最期を迎えたい。」
内閣府の調査によると、9割以上の高齢者は延命治療は受けずに、自然にまかせたいと回答しているそうです。
家族には迷惑をかけたくないという一方で、自分が長年過ごした自宅で最期を迎えたい、家族に最期を看取って欲しいと考えている高齢者も多いのではないでしょうか。
国民医療費が年間1兆円増加し続けている現在、国の医療制度改革と相まって、終末期を自宅で看取ることを国が推奨していることも影響しているのでしょう。
しかし、その願い通りになっていないという現実があるのです。
いよいよその人が、自宅で人生の幕を自ら降ろそうとする時、家族は一体どういう行動に出るのでしょうか。
それは、自宅で看取るつもりでいたのに、突然呼吸が弱くなったことを心配して、思わず救急車を呼んでしまうのです。
つまり、家族が命の終わりかどうかを判断できずに、つい救急車を呼んでしまうということなのです。
そうすると、救急救命センターは人の命を救うことを目的としているため、一時的な延命措置を取ります。
終末期の方とわかれば、医師は家族に延命の処置をするかの選択を促します。
その選択を迫っている救急現場での実際のシーンがリアルに放送されていました。
それは、救急搬送されたばかりの男性に、延命の処置を施すのかどうかを一緒に来た家族(妻、息子、娘)に問い掛けていたのです。
医師は「10分ぐらいお待ちします」と時間を切ります。
ここで家族は短時間で辛い選択を迫られます。
・延命したところで、全くゼロとは言えないが、回復の見込みは限りなくゼロに近い。
・心肺停止状態になると、ほとんどの場合、意識が戻らない。
・呼吸が戻らないと人工呼吸器は外せないので、それを外す時は、死んでもらうということになる。
そうしたことをわかってでも延命するのかどうか。
結果的には、その家族は延命という選択をしたのです。
また、これとは別に、人工透析の問題が挙げられていました。
人工透析の技術が進み、これまで透析困難者といわれる人も透析が可能になり、対象範囲が増えたのです。
こうしたことが別の問題を引き起こすことになりました。
それは透析患者の一部が、治療途中で認知症になってしまい、その治療自体の意味が理解できなくなり、何か不要な管のようなものが自分につながっていると勘違いし、管を自ら抜いてしまうという行為に至るのです。
透析治療を継続するのであれば、それを抜くことができないよう手袋のようなものを両手にはめることになります。
ある家族はここまでしてやらないといけないんだろうかと悩みます。
私には、残念ながら生かされ続けているという様子にしか見えませんでした。
なぜなら、本人が望んでいるか確認できないまま、人工呼吸器を付けたり人工透析をするなどして家族が延命させているからです。
延命医療は生存期間を単に延ばすための医療行為。
それ自体に良い悪いはない。
それを他人ではなく、本人がどう捉えるか。
技術の進歩により、死に方を選べる時代になったといえます。
死を他人事と思っている日本人が大半であるといいます。
どのような最期を迎えたいか、随分先の話と終わらせるのではなく、自分事として「生きること」、「死ぬこと」を真剣に考えるべきであるとの解説もありました。
最後に私が感じたことをお伝えします。
家族が辛い思いをすることになった原因の一つは、「最後にどこまで医療を受けるのか家族と話をしていなかった」ことによるものだと思います。
ですから、口がきけなくなった時、認知症になった時、どうして欲しいのかはきちんと家族に伝えておく必要があるのではないでしょうか。
大げさに言えば、自分の死に方の美学というようなものを事あるごとに家族に伝えておくべきではないかと思うのです。
私にはたまたま「死生観」を持ち合わせた稀有な三男がいます。
こうした番組を一緒に見ることができる小学生はなかなかいないのではないでしょうか。
なぜ死生観を持っていると私が思うのかは、ブログの第5号をご覧ください。
自分の死に方を考えることは、今の生き方を考えることに繋がる。
それは、第20号で紹介した田坂広志教授のお話からも分かります。
「第20号 リーダーに求められる必要なものを1つだけ挙げよと言われたら」
厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、自宅で最期を看取りたいという願いがあったにもかかわらず、意識が戻らないまま、何年間も人工呼吸器を付けて生き続けることになってしまう終末期患者がいるほとんどの理由は、家族に死に対する「覚悟」が足りなかったと私は思うのです。
この放送の終盤に差し掛かったところで、私は思わず息子に言っていました。
「パパは認知症になって人工呼吸器付けたまま生き続けたくないから」
「パパが話す事が出来なくなったら、お前が先生に治療を止めてくださいと言うんや」
息子は「うん」とも「ふ~ん」とも取れるようなと言い方をすると、しばらくして眠ってしまいました。
まだまだ、死ぬ予定はないと思っていますが、近いうちに家族全員にお願いしておこうと思いました。
「死生観」を持つ「覚悟」、肝に銘じておきたい大切な言葉です。