小学生の息子は、良くも悪くも純粋な少年で、感情の赴くままに、人と接するというか、ぶつかるというか、裏表がほとんどない分、しばしば真意が相手に伝わらず、誤解を受けたりして、周囲に迷惑を掛けることがあります。
ピアノをはじめ習い事をいくつかさせているのですが、先生の指示を聞かないこともよくあり、私が注意を受けたりすることもあります。
自分の思い通りにいかないと、口が悪くなり、泣いたりして、感情を爆発させることもあるのですが、本当は親思いのやさしい、良い子なんです。
とある場面で、私が不利な状況にあると察知すると、「パパをいじめるな!」といってがばってくれたりします。
「今日はパパと一緒に寝る」といって布団に入ってきたりします。
「パパが二番目に好き」と言ってくれます。
一番はママです(笑)
そんなやさしい息子が、今から1年前くらいでしょうか、一緒にお風呂に入っていた時のことです。
記憶を辿るとおそらく、自分が将来どうしたいのかを、私が息子に問いかけていたのだと思います。
息子は何をしたいとか、何になりたいとか、考えていないというか、あまり考えたくないようで、将来については、モゴモゴ話すという具合でした。
そこで、私が「パパとママが先に居なくなるから、お前は自分の力で生きていかなくてはいけないよ」と、言ったら、息子は「嫌や、パパとママが居なくなるのは嫌や、ずっと一緒に居たいんや」と涙を流して訴え掛けてきたのです。
特に大病や事故等がなければ、ざっくり言えば年代順に居なくなるもの、息子から見た祖父が亡くなった時の記憶もあるので、それはなんとなく分かっていたはず。
日常では気にも掛けていなかった。しかし、具体的に目の前に居る人のことの未来を想像してみた時、ハタと気付いた、そんな感じだったのでしょう。
でも、オンオン泣いている我が子を見て、こっちも風呂場でもらい泣きをしていました。
「なんで、死んでしまうの?」
「それは、順番だから」
「そんなん、嫌や」
と、まだ続きます。
そして、少しの沈黙の後、私は以前どこかで聞いたフレーズを息子に伝えました。
「人は死ぬために生きているから」
そうすると、キョトンして、しばらくしてお風呂から出ていきました。
それから数週間後、そんな話をしたことも忘れ掛けていたある日、休日家族で家に居た時のこと。
息子から学校の担任の先生に質問したという話を自らしてきました。
その内容とは。
息子「先生、パパが人は死ぬために生きているっていうけど、本当?」
女性の先生「う~ん、それはちょっと違うと思うけれど・・・」
この時知ったのですが、実は息子の中で、あの言葉が、ずっと気になっていたようです。
「本当に死ぬことを目的・目標として、今生きているのか?」
もうこうして考え始めると、哲学の領域に入っていかざるを得なくなりますね。
この「人は死ぬために生きている」という言葉の解釈をいろんな方がされています。
ググれば、学校の授業で取り上げられたブログ記事、Yahoo知恵袋にも、「それは間違っている」や、「そういう考え方もあるかもしれない」などがあります。
でも、つい先日、スイミングの帰りに車で息子が発した言葉を聞いて、それは正しい、間違っている、またそういう考えもある、という答えのようなものを求めること自体が違うのではと思ったのです。
どういう流れかはっきりしませんが、またまた生と死について小学生の息子と話をすることになったのです。
ちょっと変な親子でしょうか?
私「これからは、人生100年時代、2007年生まれは平均寿命107歳やから、お前はそれ以上に生きるかも」
息子「長いな~」
私「技術が進歩して、IPS細胞が進化して、弱った臓器とか総入れ替えできる時代がきて、人間は永遠に生きられる時代が来るかも」
息子「一生死なへんって、暇や~」
私は、この本当に何気ない言葉に軽い衝撃を覚えました。
息子は、「死なないことは、暇になる、生きていくことに飽きてしまう」と捉えたのです。
こうした問い掛けをしていく過程で、「人はいずれ死を迎えることになるだから、僕は、退屈な人生にならないよう、限りのある命を無駄にすることなく、精一杯生きよう」という気持ちが息子の中に生まれたのではないか。
だとしたら、答えを求めるものではなく、生きる事と死ぬ事を自分なりに深く考えさせるというところに「人は死ぬために生きている」という言葉があるのではないか、そんな風に感じた次第です。